私は中学生から大学生まで長期にわたりいじめを経験してきました。
なぜいじめはなくならないのでしょうか?
いじめをなくす方法はないのでしょうか?
当事者としての経験を踏まえ、いじめがなくならない原因といじめをなくす方法について考えをまとめてみました。
いじめがなくならない原因
一向に減らないいじめ
今もどこかでいじめに苦しんでいる人は必ずいます。
いじめの件数を調べてみると、毎年のように過去最多を更新しているのです。
いじめの件数は減るどころか増える一方なのです。
特に小学生のいじめの増加率が大幅に上がっており、いじめの低年齢化が進んでいることがわかります。
皆さんの学生時代もどこかでいじめを目撃したことはあるのではないでしょうか。
ニュースにならないようないじめはかなりの多く存在していると思います。
逆にニュースになるということは手遅れだったということなのです。
二十歳にも満たない子供が自ら命を絶つことは本当に悲しい事だし、本来絶対にあってはならないことなのです。
いじめが悪い事はほぼ全ての人が知っているはずです。
それなのになぜいじめはなくならないのでしょうか?
なぜいじめは今もなお増え続けているのでしょうか?
いじめがなくならない理由を探る前にいじめが発生する原因を理解しなくてはいけません。
いじめが発生する原因
いじめが発生する原因の多くは「普通の人と違う所を持っている」ことにあると思います。
もちろん全てがそうとは限りませんが私が受けてきたいじめの原因や、私が見てきたいじめの原因はそこにありました。
外見的にも内面的にも人と違う所は目立ちやすく、そこに目をつけられるのです。
例えば、太っている、髪の毛がくせ毛である、ニキビが多いなどの外見的要因や話し方、笑い方などの仕草や大人しい、空気が読めない、発達が遅れているなどの内面的要因など様々だと思います。
このような普通ではないところがあるといじめられる可能性が上がってしまうのです。
普通をという言葉の危険性
先ほどから「普通」という言葉を使ってしまっていますが、普通とはいったい何なのでしょうか?
私たちが日常生活で使っている普通という言葉の意味は「多数派」と言うことです。
人と違う部分を持っている普通じゃない人が「少数派」なのです。
私は普通という言葉にとても違和感を覚えます。
例えば、くせ毛の人がなぜバカにされ易いのでしょうか。
それはくせ毛の人がくせ毛じゃない人より少ないから。
ただそれだけです。
もしくせ毛の人の方が多くなれば立場は逆転してしまうのです。
単純に数の問題なのです。
日本人は特に普通という言葉が好きで、普通か普通じゃないかの判断をすぐに下してします。
そして普通じゃない人を批判したり、攻撃したりするのです。
多数派が数の力を借りて少数派を攻撃することはよくありますが、これは子供の世界だけではなく、大人の世界にも存在しているという現実もあります。
そして多数派が良くて、少数派が悪いという優劣をつけてしまうのです。
これは一部の多数派が少数派より優位に立ちたいからと言う理由で数の力を使っているだけで、本来どちらが良くてどちらが悪いとかありません。
ほとんどの人は無意識のうちに数の力を利用してしまっているのです。
だから、普通ではない少数派の人がいじめられていても、周りの人はそこまで違和感に思わない。
みんな事が大きくなるまで気づかないのです。
私たちは普通という言葉を無意識に使ってしまいますが、普通という言葉の裏に隠された危険性を知らなければ無意識のうちに誰かを傷つけることになってしまいます。
根底にある矛盾
いじめがなくならない原因は日本の教育方法にあります。
日本の教育方法を簡単に言うと「多数派のための多数派による教育」または「普通人間を作るための教育」なのです。
学生時代を思い出してください。
みんなが同じ時間に学校に行き、同じように授業を受け、同じ時間に帰る。
みんなと違った行動をすれば先生や親から怒られるのです。
みんなと同じ行動ができる人が良い子で、人と違った行動をする子が悪い子と見なされます。
個人が持つ個性なんて二の次なのです。
つまり今の教育は多数派に入ることを教え、普通人間を量産する教育と言えるのではないでしょうか。
先ほども述べましたがいじめの原因のほとんどは人と違う所があること、普通じゃないことにあるのです。
でも学校の教育は普通でいることを教えている。
多数派に合わせるように教えている。
皆さんは気づきましたか?
いじめは悪いことだと言う当然の教えと、学校の教育方針に間に矛盾があることを。
多数の人と同じように普通でいる事を教えているくせに、同時に少数派の普通ではない人を批判すること、いじめることは良くないことだと教えているのです。
明らかに矛盾していませんか?
だから子供たちもいじめは良くないことだと言われてもはっきり理解できないのではないでしょうか。
子供たちからしてみれば「いじめは悪いことだと知ってはいるけど、普通じゃないことや人と違うことも同じように悪いことだよね」と思ってしまう。
そして「少しくらいバカにしたって、否定したって大丈夫だよね。だって普通じゃないあなたが悪いのだから」となりいじめが始まってしまう。
だから周りの人たちもいじめを止めようとはしない。
学校も先生もいじめを隠そうとし、時には先生もいじめに加わることだってあるのです。
同じ教育を受けてきた大人も同じ考えを持ってしまっています。
この日本教育の根底にある矛盾を解決しない限り、絶対にいじめはなくならないのです。
いじめをなくす方法
多様性を認める教育
私はいじめをなくす方法は一つしかないと思っています。
それは人の多様性を認め、それを受け入れる社会にすることです。
そのために学校の教育も多様性を尊重する教育に変えなければいけません。
本来、普通の人なんて存在しないし、ロボットみたいに完璧な人間もいないのです。
人は皆、それぞれ違った個性を持っています。
ただ、その個性が大きいか小さいか、多数派か少数派かの違いだけなのです。
人の個性を当然のように認めることができる社会にしなければ絶対にいじめはなくなりません。
あえて普通という言葉を使うなら、他人の個性や自分の個性を認め合うことが多数派の普通で、相手の個性を批判することが少数派で普通じゃなくなれば、いじめは存在できなくなるのではないでしょうか。
そんな社会になれば日本はもっともっと素晴らしい国になれると思います。
社会の規律を学ぶことももちろん大切
私は今の教育を全否定しているわけではありません。
個性を認めるからと言って、授業中に勝手な行動をしたり、空気の読めない発言をして良い事にはなりません。
集団の中で相手に合わせ、自分がどのように行動しなければいけないかを学ぶ事は大切なことだと思います。
私が言いたいことは、今の教育は圧倒的に人間の多様性を認める教えが少ないということです。
確かに多数派と同じように行動し、普通でいることも必要なときもあります。
しかし、それと同じくらい他人の個性を尊重することが大切なのです。
その二つのバランスが重要なのではないでしょうか。
よりよい社会を目指して
普通でいることは決して悪いことではありません。
でも普通じゃない人を批判して良いことにはならないのです。
人より劣っている部分がないのであれば、そのことに感謝するべきなのです。
そしてもし近くにハンディキャップがある人がいればその人をサポートしなければいけません。
多数派と少数派のどちらが良い悪いではなく、認め合うことでしか分かり合うことはできないのです。
私は外見的にも内面的にも人より劣っている部分が多かったため、そこをバカにされ批判され、長期にわたりいじめを受けてきました。
でも生まれ持った外見や内面の個性を批判されてもどうすることもできないのです。
普通の人と同じようにしたくても、できないのです。
そんな自分のことを大嫌いでした。
学校に行けばクラスメイトに責められ、家では親に責められ、最後に自分で自分の事を責めてしまうのです。
そして体や精神は疲れ果て、メンタルに不調に陥り、最悪な結末を迎える場合だってあるのです。
学校とは勉強だけを学ぶ場所ではありません。
集団生活の中で様々な経験を通して、自分の事を知り、相手の事も知るのです。
そして自分自身を尊重し、相手も尊重することを学ばなくてはいけません。
まとめ
現在のいじめ対策が不十分だということは、いじめ件数の増加から見ても明らかです。
いじめを行った加害者や担任の先生だけを批判し、大人たちは責任をなすりつけ合います。
再発防止のための対策は考えられていますが、どれも対症療法なのです。
薄っぺらい対策ではいじめは減らず、増え続けます。
根本的な原因に目を向けなければいじめはなくなりません。
日本の教育方針を変えることは簡単ではないでしょう。
私の言っていることは理想論なのかもしれません。
それでもいじめをなくしたいのです。
これがいじめ体験者としての役割です。