いじめはとても残酷な行為です。
しかも、現在の日本では、この残酷な行為がいたるところで平然と行われています。
人を殺してはいけないことは、誰もが知っているでしょう。
しかし、人の心を殺す行為は簡単に行われ、周りもそれを目撃しているにもかかわらず、見逃され続けています。
いじめは魂の殺人なのです。
ただ、言葉という見えない武器で、心という見えない物を傷つけるので分かりづらいだけなのです。
見えない武器で何度も攻撃された傷の痛みは、本人にしか理解できません。
そして、取り返しのつかない事態になってようやく周りが騒ぎ始めるのです。
私は中学、高校、大学と長期間ひどいいじめを受けてきました。
昔は当時のことを思い出すだけでも辛かったですが、今になってようやく冷静に振り返ることが出来るようになりました。
今回いじめを受けていた当時、結局何が一番辛かったのかについて当事者目線も含めお話させていただきます。
1、いじめは公開羞恥刑
公開羞恥刑という言葉をご存じですか?
公開羞恥刑とは古代において犯罪者や異国民を辱めるために行われていた刑罰で、あまりにも残酷なため死刑より重い刑と言われていました。
それ故、先進国では廃止されている刑罰です。
学校内で起こるいじめは、いじめられている人が公開羞恥刑のような体験をさせられているのではないでしょうか。
学生時代を思い出してみてください。
学校という狭い社会、教室という狭い社会が世界の全てのように感じていたはずです。
本当は学校の外にも世界は広がっているのに、そのことにはまだ気づくことができません。
つまり、当時は教室の中が自分たちの生きている社会そのものなのです。
いじめとは教室の中でつるし上げられ、大多数の目の前で酷いことや自分の弱みなどを言われ辱めに合うことなのです。
これこそが公開羞恥刑であり、こんな残酷なことが毎日のように行われているのです。
恥ずかしという感情は人に大きなダメージを与えます。
例えば一対一で悪口を言われるのとクラスのみんなの前で悪口を言われるのでは、言われた本人に与えるダメージが全然違います。
皆さんも人前で恥をかいた経験はありますか?
身体が熱くなるような感覚、力が入って固まってしまうような感覚はありませんでしたか?
私はそんな感覚になっていたことを覚えています。
つるし上げられ、辱めに合うと、身体が固まり何もできずただ身体を震わせながら耐えるしかないのです。
戦うこともできず、逃げることも許されず、地獄のような社会を生きるしかないのです。
そんな地獄のような生活を二十歳にも満たない未熟な子供が耐えられると思いますか?
最初にも言いましたが公開羞恥刑は死刑よりも残酷な刑なのです。
つまり「死んだ方がマシ」と考えてしまうのも不思議ではありません。
今も公開羞恥刑という人を殺しかねない行為が日本中で平然と行われています。
想像するだけで胸が苦しくなりますが、現在に教育ではいじめは減らないでしょう。
実際にいじめによる自殺の話題は定期的に問題になっていますが、一向に減る気配がりません。
2、加害者側の意識について
いじめの加害者、特に主犯格と呼ばれる人たちはいじめる行為を悪いことだと思っていません。
むしろそれが正義なのです。
いじめが始まる時は必ず原因があると思います。
例えば苦手なことがある、何かに失敗するなど行動的要因や外見的、性格的要因などがあげられます。
簡単に言うと、他の人と異なった部分があると、いじめの対象になりやすのです。
人より劣っている点、違っている点を見つけ、あたかもそれが罪のように罰を与える。
日本社会の中でも罪を犯せば罰を与えられますよね。
狭い教室の中という世界でも同じようなことが行われているのです。
つまり、いじめの主犯格はその小さな世界のトップの地位にいる感覚なのでしょう。
いじめは弱い物をつるし上げ、相手に恥をかかせることで、立場の違いを明確にし、自分が社会の統一者に登りつめる一番簡単な方法なのです。
さらに関係ない周りの人たちも、統一者に罰を与えられたくないので、いじめを見て見ぬ振りをする、もしくはいじめに荷担するのでしょう。
これが群衆心理の恐ろしいところです。
私はいじめを受けていたときに、主犯格の自信に満ちた満足げな笑顔を今でも忘れません。
そして、今まで中がよいと思っていた友人までいじめに参加するという絶望を味わいました。
なぜ、そんな残酷なことを堂々とできるのか当時は全く理解できませんでしたが、今ならわかります。
それは相手にとって私が人間失格者としての悪で、自分がそれを罰する正義なのです。
恐ろしいことに教師や親もいじめに加わる場合もあります。
しかし、それも大人たちにとっては教育という正義なのです。
なぜこのようなことになってしまうのでしょうか?
原因は日本の教育方針にあると思います。
現在の日本の教育は「人と同じであること」が正義で「人と違うこと」が悪なのです。
この教育方針が変わらない限りいじめは減らないでしょう。
3、いじめ被害者はその後の人生に多大なる影響を与える
私はいじめを受けている時、戦うことも逃げることもできず、ただ耐えていました。
やり返したり、学校に行くのを止めればいいのではないかと言われることもありますが、それはいじめを経験したことのない人の意見です。
戦ったり、逃げたりする体力なんて残されているはずがありません。
自分自身の身体と心を守るために全エネルギーを費やしているのですから。
そんな私が長期間いじめを受けていたある日、世界が一変しました。
忘れもしない高校一年の秋、目の前が急に白黒の世界になったよう感覚になりました。
そして、辛い感情を感じなくなりました。
それと同時に嬉しい感情や楽しい感情というポジティブな感情も同時に感じなくなりました。
私の魂は殺されたのです。
これが魂の殺人です。
人は長期間、慢性的なストレスにさらされ、これ以上耐えられない限界までいくと全ての感情をシャットダウンし何も感じなくなるそうです。
これは自分の身体を守るための防衛本能です。
これを精神学用語で解離と言います。
さらにいじめのような長期間のストレスなさらされた場合、たとえいじめが終わった後も慢性的な解離状態に陥るのです。
ネガティブな感情もポジティブな感情も何も感じない、生きているか死んでいるかわからないような状態がこの先ずっと続くのです。
そんな状態で充実した生活が送れると思いますか?
さらにいじめ後遺症により、その後の人生で様々な精神疾患に罹るお膳立てができてしまうのです。
うつ病や双極性障害、複雑性PTSDなど。
このような過去のトラウマが原因で精神や身体に不調をきたすことを発達性トラウマ障害と呼ぶようです。
自殺という最悪な結末にならなかったとしても魂は死んでいます。
いじめは魂の殺人です。
本当は素晴らしい個性であったり、その人らしい人生、幸せな未来、すべて奪われます。
だから、いじめは絶対に駄目なのです。
他人の心を殺す権利は誰にもありません。
まず、このことを大人や教育者たちがしっかり知らなければいけないのです。
そして大人の世界にもいじめが存在し、いじめのやり方もITの進歩とともに多様な形になっています。
私はいじめ当事者としてその経験を伝える義務、そして辛い体験を乗り越えた先に見える自分だけの幸せがあることを伝える義務があると思っています。
このブログを見ているかたで現在いじめを受けていて辛い状況に方、後遺症で苦しんでいる方がいるかもしれません。
大丈夫です。
今は地獄の中にいるように感じられるかもしれません。
そんなときは無理をしないでください。
自分で自分を傷つけることだけは止めてください。
逃げることが可能であれば、まず逃げてください。
身の安全を確保してください。
今はまず休んでください。
焦る必要はありません。
そして、十分エネルギーを回復させてから、これからのことをゆっくり考えれば大丈夫です。
学校の外には無限の世界が広がっていることをもうすぐ気づきます。
あなたの体験を通して自分の使命や自分の価値に気づくときが必ず来ますから。